プロフィール

本多夏帆(ほんだなつほ)の生い立ちから政治を目指すまでのエピソード

身近な人のためにできることをする、皆がこれをやれば皆がハッピーになれる。
そう思って、地域での活動を行ってきました。

自治の精神があふれるこのまちで「人と動く」
すなわち働くを活動テーマに設定しました。

私自身働くことが大好き、そんな想いが日々の行動に繋がっています。

「働く」代表 本多夏帆(ほんだなつほ)

誕生日 … 昭和63年8月28日
血液型 … B型

【経歴】
平成7年4月〜13年3月:三鷹第四小学校
平成13年4月〜19年3月:大妻中野中学・高等学校
平成19年4月〜23年3月:中央大学法学部法律学科

【職歴】
平成19年4月〜25年1月:株式会社城南進学研究社 アルバイト
平成25年2月〜8月:不動産系ベンチャー企業 マーケティング事業部
平成25年10月:Office Breath 創業
平成26年7月:Breath行政書士事務所 設立 代表就任
平成28年11月:株式会社Office Breath 設立 代表取締役就任
平成29年12月:一般社団法人日本合唱研究所 設立 代表理事就任
平成30年9月:一般社団法人スクール・トゥ・ワーク 理事就任
令和3年2月:一般社団法人表現の学校 理事就任

【自己紹介】
趣味  … 歌うこと、合唱、野球観戦
尊敬する人物  … 宮澤雅子先生(大妻中野中学高等学校元校長・合唱部顧問)
好きな言葉  … 目の前の人を幸せにする
長所 … 行動力とあふれるバイタリティ
短所 … 感極まると泣く

  • 1988年8月28日、8だらけの日に生まれる。荻窪の衛生病院で生まれ、東京都三鷹市の家で生活が始まる。
  • 3歳からピアノを始める。最初は母に教わりながら、弾けなくて泣きつつ、それでもずっとピアノに向かっていた。幼稚園の先生に毎週土曜日教わり、耳コピもできるようになった。
  • 明るく元気な子で、人見知りもしなかった。スーパーマーケットで買い物中、母と少し離れると知らぬ間に友達を作ってきたらしい。よくしゃべる。とにかくずっとしゃべっている。
  • 3歳のとき妹が生まれた。妹はふわふわくるくるの髪の毛でかわいかった。
  • セーラームーンが大好きで、妹と一緒にずっと変身していた。
  • 幼稚園の連絡帳を返されるとき、名前をさかさまに呼ばれるのが面白くてはまっていた。「ほ つ な だ け い さーん!」※旧姓
  • 卒園式で答辞を読む役を任された。何が何だかわからずただ読むのだという感覚だったが、いざ読んでみると園長先生の前で涙が出てきた。
  • 将来の夢はピアニスト。

  • 本多夏帆の幼少期はセーラームーンになることが大好きな子でした。
  • 1年生になると、もう1人の妹が生まれた。学校から帰ってくるとゆりかごに寝ていて、外の日差しが眩しかった。
  • 九九が得意で、すぐ覚えられたのが自慢だった。
  • 野川公園に自転車でしょっちゅう遊びに行って、手を猫に引っかかれたことがある。ちょっとトラウマになる。
  • 本を読むのが大好きで、かいけつゾロリやシートン動物記、小説をたくさん読んだ。途中で図書室が新しくなり、入り浸った。
  • ファイナルファンタジーが大好きで、妹と一緒にストーリーを進めた。1人1時間と決まっていたから、一緒にやることで1日に2時間分進められた。
  • ゲーム音楽を耳コピしてピアノで弾いたり、お小遣いを貯めて楽譜とサントラを買って弾いたり、熱中した。植松伸夫さんは神だと思った。この頃は編曲家になりたいと思っていた。
  • ピアノにバレエ、プールに加えて、4年生のとき三鷹の阿波踊りに出ることになり練習していたら、帯状疱疹になった。大人が過労でなる病気と言われた。
  • 5年から、親が別居した。なんとなく父がいないなという程度で、あまり気にしていなかった。
  • 6年生の夏、急遽中学受験をすることになった。それからの5ヶ月間、国語と算数にひたすら集中した。
  • チャレンジ校と言われ説明会にも行ったことのなかった大妻中野を初日に受験。雪がちらつく寒い日だった。午前中で試験を終え学校へ行くと、給食が大量に余っていて皆でいっぱい食べた。わかめごはんに魚のフライだった気がする。
  • 夕方合格発表を見に行くとなんと合格でびっくり。算数はいまいちだったが国語がよくできていたとのこと。読書が好きで良かった。急に決まった受験で特にこだわりがなかったので進学を即決し、次の日からは受験せずに学校へ行った。毎日のように皆で2人分の給食を食べないとと頑張った。1日中図書室にいられて、幸せだった。

  • 本多夏帆の小学生時代はとても活発な子でした。
  • 中野への通学が始まった。電車で15分、駅から15分歩いて学校へ。立ち寄り禁止の校則だったので、なんだかんだ街のことは詳しくならない。
  • 1年生のとき、父方の祖母が亡くなった。親の離婚でバタバタしていたさなかで、もっと会いに行けば良かったととても後悔した。祖母の手作りプリンが大好きだった。
  • 一番下の妹の幼稚園のお迎えによく行った。ほかの子たちとも一緒によく遊んだ。
  • 妹の運動会では朝から場所取りに行き、撮影係をやった。ビデオも写真もよく撮れるように、事前に妹たちにヒアリングした。母は後からお弁当を持ってきた。
  • 母方の祖父母が一緒に住むようになった。祖母と一緒に台所に立った。筑前煮とばら寿司が美味しくて、味付けをメモした。
  • 2年生のときに一度断った合唱部に、3年生のとき入部した。合唱部は全国大会の常連、私もやってみたいと思った。週7日合唱の日々が始まった。
  • 中高一貫なのであまり変化はないが、高校生になり、より合唱に熱中していった。2年生のとき、学生指揮に選ばれた。
  • 最初はリーダーシップの執り方が分からず、周りを怒らせてしまったこともある。少しずつ、どうすれば巻き込めるのか、感覚を磨いていった。
  • 2年生のときは先輩たちに引っ付いて、NHK全国学校音楽コンクールで全国大会へ行った。NHKホールの照明は座席が見えないくらい眩しかった。
  • 全日本合唱コンクールでは、全国大会で広島にも遠征した。原爆ドームを観て帰り、その翌週には修学旅行で長崎へ行った。被ばくされた方の話を聞いたお礼に「瑠璃色の地球」を歌ったとき指揮もした。私がずっと泣いているから、皆も泣いた。
  • 中学のときは勉強に励んでいなかったが、高校に入って少し取り組んだら成績が上がった。その感覚にはまり、右肩上がりを目指すようになった。
  • 母が「弁護士は1時間に1万円も稼げるよ!」と言ったのが耳に残り、図書館で弁護士のことが分かる本と少年法の本を借りた。法律に興味がわいた。
  • 大妻には法学部がないため、受験を意識するようになった。それでも一番大切な合唱部での活動を最後までできるように、推薦受験を選んだ。
  • 法曹を目指すならその道に繋がるところへと、推薦がある中でも中央大学を選んだ。AOとは違い、PRも学力も必要になる自己推薦入試に挑戦することになった。
  • この自己推薦入試が曲者で、社会人も受けられるものだった。2000字の自己推薦書を送り通過、夏休みに1万字の論文を書いた。タイトルは「子どもと自由」、少年法厳罰化に反対し、もっとほかにできることはないのかと論じた。合唱部の合宿にパソコンを持ち込んだ。
  • 論文が通過すると1時間の面接に呼ばれた。私は1人、目の前に教授が4人。だんだん大人と話すのは楽しいと思ってきたところで、よくわからない質問をされ答えられず、それで面接は終わった。確実に落ちたと思った。学校へ戻り、青い顔をして部活動へ行った(合唱部が精神安定剤)。
  • 合格発表の時間、職員室の会議室で友達を集めて皆でパソコンに向かった。絶対に無理だと思っていたけど、ログインして時間差で桜の画像がパッと出たときは叫んだ。皆に抱きしめてもらって、涙が出た。
  • それからは合唱部の活動と、受験に向かう友達のサポートに努めた。せっかく申し込んだのだからとセンター試験対策もして、学芸大学で受けた。リスニングが初めて導入され、事件が多発したのを覚えている。
  • 卒業式ではまた、幼稚園ぶりに答辞を読んだ。何回も書き直し、練習もして、泣くなら後半にと思っていたのに序盤で泣いた。涙で校長先生の顔を見られなかった。私が泣くものだから、これまた皆も泣き続けた。
  • 本当の卒業は3月25日の合唱部の定期演奏会だった。私たちの代はマンマ・ミーアを選び、歌とダンスで発表をした。すべて手作りの2時間の舞台。これで終わりなのだと思うと、すべてが愛しかった。顧問の宮澤先生に名前を呼ばれ、後輩から花束を受け取った。観客のほうを向いて指揮をした。「心のアルバム」を歌って幕は閉じた。

  • 本多夏帆の高校生時代。合唱コンクールでみんなで力を合わせて受賞しました。
  • 中央大学法学部法律学科に入学。推薦受験のときに論文を書いたことから、1年生のときに教育と論文をテーマにしたゼミに入る。
  • 法律の勉強はそこそこに、教養系の授業にハマる。知らないことを知るのが楽しかった。
  • サークルには入らず、吉祥寺での塾講師のアルバイトに熱中する。自分がお世話になった塾。週6日で授業した。スケジュール感覚が中高合唱部の生活と変わらない。
  • 授業だけでなく教室運営も任されるようになり、異例の1年生後期で主任になった。多少のバッシングを受けつつも成績向上・売上向上に努める。組織づくりを学ぶ。
  • 「できるように考える」教室長に逐一言われた言葉。
  • 吉祥寺を飛び出て、他教室のサポートにも行くようになった。荻窪、新高円寺、成増、そして武蔵中原教室でのちに結婚することになる夫と出会う。
  • 他教室では今までの経験を活かし、さらには地域の特性を考慮したうえでの運営を行った。違いに対応していくのが面白かった。
  • 熱い熱い講師と個人面談したり、笑ったり泣いたり、夜な夜な飲みに行ったり、夏はバーベキューしたり。サークルに入っていなかった分、学生らしいことは全部アルバイト先でした。
  • いろんな生徒がいた。モチベーションもさまざま、進路先もさまざま。保護者の要望もさまざま。それぞれの想いを汲むこと、実現することに徹した。数えきれないぶつかり合い、感動、奮起する場面に立ち会えた。
  • ほとんど塾講師に捧げた4年間だったが、4年生のときはまた論文を書くゼミに入った。論文に始まり論文に終わる大学生活だった。最後は法教育についての論文を書いた。個性にあふれたメンバーで、毎週白熱した議論をした。「法学部だなぁ」と感じられるゼミだった。
  • 卒業するとき、東日本大震災が起きた。卒業式は中止になった。あのときテレビで見続けた映像は一生忘れないと思う。
  • 塾講師に熱中しすぎて、自分の進路を考えるのを先延ばしにしていた。そんななか友達に誘われていった国家公務員の説明会で、OBの方々の人柄に憧れて目指すことにした。
  • 国家公務員の勉強は法律のみならず教養まで幅広く、そんなに簡単なものではなかった。過去問を何周も回し一時予備校にも通ったが、合格には届かなかった。
  • 公務員を目指すにあたって、幸せとは何かをよく考えた。50人くらいに質問してみたが、小さいかもしれない身近な幸せを大切にしている人が多いことに気づいた。
  • 留年することはせず、既卒で就職活動をした。大手中小など規模感の違うところを受け、結果ベンチャー企業から採用された。何か新しいことをしたいと希望し、マーケティング事業部に配属していただいた。
  • 入社したとき同期の中では最年長だった。恥ずかしくないようにと、最初の業務知識を問う試験では1番を取った。
  • ホームページを1から作る経験や、他社の数値を毎日調べ自社の商品価格を決めるなど、責任ある業務をやらせていただいた。
  • 社長が早朝に出勤しているのに惹かれ、朝早く出勤するようになった。なんとなく朝いるスタッフで仲良くなるのが嬉しかった。
  • 社労士として駆け出しだった母が突然心臓が痛いと言った。衝撃を受けて、このままでいいのか悩んだ。結局、母といつか自営業をやるのなら今やろうと、会社を辞めることにした。半年という短い時間だったが、濃密な期間でお世話になった。私の決断を応援してくださり、申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいだった。
  • 8月に会社を辞め、11月の行政書士試験を受けることにした。公務員試験と似ていたのと、なんの資格もない25歳が母とうろちょろしていても何もできないと思ったから。
  • 試験ではぎりぎりセーフで行政書士に合格。朝に見た条文が出た。ラッキー…
  • 行政書士を開業するまではできることが少なく、まず私にやれることをと就活生へのアドバイスを始めた。ワンコイン就活塾はウケも良く、1年間で50名以上の学生が集まるほどになった。
  • 就活に詳しいとなると、企業側の目も変わった。採用コンサルタントとしても、母の顧客に若手採用のコツなど伝えるようになった。
  • 誘われるセミナーや交流会にはなるべく全部行った。1年目にそう動いたことで、今やこのときの人脈が財産になった。
  • サービスが拡充できてきたところで、法人成りを決意。25歳から始めた事業を28歳で法人化した。株式会社と行政書士事務所の二足の草鞋を履く。
  • 教育関係の方々と話しているときに、合唱のすばらしさを伝えていたら「それってチームビルディングにいいのでは?」と言われ、企業研修として行い始める。それにともない一般社団法人を設立。三足の草鞋となる。合唱の良さを伝えられることに心からの喜びを感じる。
  • 就活に携わるなかで、高卒や中卒の就職についても課題を感じ始める。そんな折、公務員試験のときにお世話になった大学OBから非大卒キャリアにまつわる社団設立の紹介を受け、メンバーともすぐに打ち解けて理事に就任。若者のキャリアの可能性を広げる活動にわくわくする。
  • さぁいよいよ会社を大きく!と思ったところで、妊娠する。結婚してから1年以上できなかったので、待ち望んだ子だった。幸いあまりつわりはひどくなく、そのまま仕事を続ける。
  • 徐々にお腹が大きくなるも、関西出張を繰り返し、立ち仕事もつらくなってきた。講師業は減らして、出産の夏を迎える。
  • 月1の顧客訪問を成し遂げるべく、8月の頭と9月の終わりにアポを設定。8月25日の予定日に向け吉祥寺のビルの階段を上り下りし、無事に19日出産!産後ハイの中、仕事のメールを返す。
  • さすがに産後は睡眠不足に見舞われ、いらいら、眠い日々を過ごす。9月の終わりに顧客訪問へは子連れで家族と出向き、なんとか仕事に向かう。自営業は産休も育休も制度はない。自由は自由だが、代わりがいないのが大変なところ。
  • 生後3ヶ月のタイミングで、夫がベトナムに3ヶ月研修で行くことが決まる。おいおい…と思いつつ、せっかくなので年末年始に1ヶ月、息子を連れて行ってみることにした。初の海外生活にチャレンジ。
  • 行き帰り1人で赤ちゃん連れというのはなかなか大変だったが、ベトナムは子どもにとても優しく、親切な人ばかりで、毎日楽しく生活できた。近いのでタイにも行った。リモートワークも実践できた。
  • 帰国後はまた少々ワンオペ生活となったが、貴重な赤ちゃん時代を夫にもちゃんと体感してもらうことができ、良かったなと思った。
  • 1歳が近づくにつれ、子連れ仕事も限界を感じ始めた。それでも周囲の「保育園落ちた」を見ていて、身内で見られるうちは見ようと思っていた。1時間見てて!と夫に言うようになり、これは皆同じなのでは?と「赤ちゃんをちょっと見ててくれる場所」を作ろうと決意。7月に着想して11月にオープンするという怒涛の5ヶ月を過ごす。自分の忙しさを軽減するはずが、さらに忙しくなる。
  • 地域でお店を開いたことで、繋がりが一気に増える。地域活動をされている方々や、ママパパ友が増えた。一緒に仕事と子育てができることに喜びを感じる。
  • 何足草鞋を履いたか分からないが、これがパラレルキャリアだと実感しながら前に進んでいる。これまでにそうやって踏み出してきたことから、今回市政への挑戦という機会に恵まれ、また一歩を大きく踏み出すことができた。求められていることをやる、想いをかたちにする、これまでの経験を活かせるチャンスだと思っている。
  • 議員になろうと思ったのは、乳幼児のいる世代がいないと議会関係者から言われたことから。現役の議員や実際に市長からもお話をいただいた。地域活動をしているとこんなことに繋がるのかと驚いた。時間もあと40日と差し迫っており、はじめはよく分からないまま言われるがままに準備をしたが、少しずつ自分の考えやスタンスが固まり、応援演説やコメントなどはもらうことなく、すなわち後継やどこかの党と関係があるといった立場は取らずに、純粋に地域のことをやりたいという個人行動で進んだ。二連ポスターはあったがその後公報などに後援などなかったのはこうした経緯による。それが市民の目にどう映ったかは分からないが、選挙まで時間がない中で決断するといろんなことがあるということは後世に残したい(迷ったら相談して欲しい)。
    本多夏帆は子育てをしながら仕事や市政に挑戦してきます!
  • 1640人の方に「本多夏帆」と書いていただき、ありがたいことに当選することができた。
  • すぐに行わなくてはならない「会派決め」にあたり、見ず知らずの関係にあった宮代議員の選挙公報やホームページを拝見し共感。会って話をし、無事にチームを結成。
  • 会派名は互いの政治団体名から「ワクワクはたらく」とし、右でも左でもない、その時々の判断を大切にしていくという考えを確認した。
  • それぞれが経験を生かしながら提案や指摘をしている場だと実感。乳幼児のいる当事者としての発信だけでなく、事業者としての発言も大切にしている。
  • 年間ならすと週の半分は役所、半分は自分の会社という生活になった。とはいえ議会が開かれている時期(3,6,9,12月)はぎゅっとスケジュールが詰まるため、役所にこもりきりになる。何時に終わるか分からないという生活はなかなか大変で、保育園のお迎えなど親戚に頼ることも増えた。
  • そんな中、任期中に第二子を授かり出産。特段休むことなく産前産後も議会に出席し続けたが、周囲の理解あり見守っていただいたことに感謝している。武蔵野市議会に産休育休制度はないが、その分制度に縛られず、自由に調整をさせてもらえたことで、私自身が目指す柔軟な働き方の実現に繋がっていると考えている。
  • 第二子出産と同時期に、国内が感染症に脅かされることになった。臨時会が頻発されるようになり、対応に追われる。市と市民を繋ぐ役割を再認識。
  • 30代唯一の議員になり、住民構成と議会構成を近づけていくためにどうすればいいか思案に暮れている。